ミメーシス
ミメーシスとは、「模倣」または「再現」という意味を持つ西洋哲学における概念の一つ。
なのですが、そう言われてすぐに分かるという人は、たぶんあんまり居ないですよね(笑)
そういうわけで、この記事では、
- 『ミメーシス』とは、何か?
- ミメーシスの源流『イデア論』とは何か?
- 文学における『ミメーシス』の重要性
という三点を中心に、考察を簡単にまとめていくことにしたいと思います。
結論から言えば、『ミメーシス(模倣)』とは、芸術性を生み出す源のようなものです。
小説における「キャラクターの魅力」や「文体の魅力」を左右していくことになるでしょう。
それでは、順序立てて説明していきますね。
▼動画でも解説しておきました(`・ω・´)b
目次
> 『イデア論』とは?
> ソクラテスの哲学とは?
> プラトンの哲学とは?
>『ミメーシス』とは?
> ミメーシスと芸術の関わり
> 創作においてミメーシスが重要な理由
> 初心者のための雑すぎる解説編
> ディエゲーシスには、芸術性がないのか?
> まとめ
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『イデア論』とは?
まず、ミメーシスの説明に入る前に、ミメーシスが登場するきっかけとなった議論である『イデア論』というものをご紹介します。
『イデア論』を現代風に言えば、私たちが普段見ている物体や風景は、VR(バーチャル・リアリティ)にすぎず、本物は私たちの知覚できない、もっと高次元な空間に存在しているのではないか?とする論述です。
この時、高次元にある「本物」のことを、「イデア(Idea)」と呼んでいます。そして、イデアを私たちが知覚できるものに落とし込んだもの(=イデアの模倣)のことを「ミメーシス(Mimesis)」と呼びます。
つまり、「私たちが普段眺めているスマートフォンも、実は四角い形をしているように人間の視覚では捉えられているだけで、もしかしたら本当はナウマンゾウのような奇々怪々な形で存在している可能性すらある」と述べたいのです。
そうなると、私たちは通勤電車で大量のナウマンゾウを片手に、ナウマンゾウのお尻を突いていることになるわけなのですが。まぁ、それは脇に置いておくとして。
ここまでを理解するのは、そんなに難しいことではないですよね。まだわからないという方は、「洞窟の比喩」というキーワードで検索すると分かりやすい解説が出てくると思います。
さて、イデア論単体が述べたいこと自体は、これで終了です。
しかし、これだけだと「で? 結局、何が言いたかったの!?」となるのではないかと思います。正直、私も最初はそう想いました。
それを知るためには、イデア論を論じる中心人物となった古代ギリシア哲学の巨人である「プラトン」と、その師である「ソクラテス」の想いを追っていく必要があります。
ソクラテスの哲学とは?
まず、プラトンを語る上で重要となってくる人物として、師であるソクラテスという人物がいます。
ソクラテスは、古代ギリシアにある中心都市デルポイにおいて、神を祀る神殿から「デルポイの神託」と呼ばれる。有り体に言えば、神のお告げを聞くことになります。(実際は、知人が告げられたようです)
内容としては「ソクラテスより、賢い人間はいない」と告げられるのですが、
ソクラテスはこれに対して、私は知恵のある者ではないことを自覚している、神は何の謎をかけているのか、と考え、この謎を解くことが神から課せられた自分の天職だと考えました。
その後、ソクラテスは賢者(=当時の知識人)の元を訪れては、「何も知らないのに、知った気になっている」という賢者たちの実体を知ります。
これが所謂、「無知の知」と呼ばれるものですね。知らないことを知っているという意味で、ソクラテスは他の賢者に比べて賢いという結論で、神からかけられた謎を解いたというわけです。
このようにして、ソクラテスは「知ることとは、何か?」ということを生涯をかけて探求していたことが、知られています。
ちなみに、本来哲学とは噂とか思いつきで政治を進めるんじゃなくて、もっとちゃんと考えようぜというところから始まっています。
人類は、それからしばらくいろいろと考えることになるのですが、結局よくわからない事を考えても仕方ないじゃんということで、「ソフィスト」と呼ばれる論破厨を中心に政治が進みます。
それに異を唱え、みんなに「お前ら無能なんだから、知ったかぶりすんじゃねぇ」といったのが、ソクラテスということですね。
最終的には、反感を買って死刑になるのですが。ソクラテスの弟子たちは、考えることの大切さを後世に残そうと奮闘していきます。その一人が、弟子のプラトンです。
プラトンの哲学とは?
さて、そんなソクラテスの影響を強く受けていたプラトンなのですが、先述の「イデア論」を論じる時にソクラテスの哲学を使用しています。それを想起説(そうきせつ)と呼んでいます。
・想起説とは?
想起説とは、人間は、生まれる前にすべての物事を知っていたが、生まれる際に全て忘れてしまうのだ。すなわち、学ぶということは、イコールで忘れている記憶を想い起こすことに他ならないという説のことです。
なかなかに意味不明な説ですが。この論拠となっているのが、先程説明したソクラテスの哲学です。
先述の通り、プラトンはソクラテスの影響で「わたしたちは何もわかっていないし、理解することもできない」とおもっていました。しかし、とあるジレンマが発生してしまうことに気づいたのです。
以下の引用文が、論拠をわかりやすくまとめてくれていたので、参考にしたいと思います。
Xとは何かを問うのは、Xを知らないからだ。しかしXを探求するためには、Xを知っていなくてはならない(財布が何かを知らずに財布を探すことはできない)。この矛盾を解くために、遍歴を重ねてきた不死の魂はXのイデアをもともと知っており、それを忘れていただけだ、と考える。知ることは、その忘れていたことを思い起こすことである。
これを簡単に、関西弁で言い直すと。
生まれる前からXを知ってたんやけど、忘れてるだけだったんやわ。
だから、Xってなんやっけ?って疑問にも思えるし、ちゃんと考えれば答えにたどり着くことも出来るんや!
(すなわち、研究や知の追求に意義アリ!ソクラテスの言っていた知の追求は、正しかったんや!)
ということになります。
プラトンが『イデア論』を語っていた目的は、「諦めずに、イデア(知恵や未知)を追求せよ。想起説がある限り、私たちがイデアを思い出すことは可能なはずなのである」と述べたかったという所にあったんです。
ちなみに、プラトンは「アカデメイア」と呼ばれる学園を作っていたりしますが、これが現代のアカデミー(=大学)の原型になっています。
要するに、プラトンという人物は、知を追求する哲学者であり、研究者といった人生観・価値観を持っている人物だったというわけですね。
『ミメーシス』とは?
プラトンの『イデア論』の中で、ミメーシスとは「イデア(理想像)の模倣」であることを述べておいたのですが、もう少し具体例で説明していこうと思います。
例えば、机の上に紅茶があったとして、その紅茶の絵を描くとき。
紅茶の絵というのは、紅茶のイデア(高次元にある実体)の模倣(机の上にある紅茶)の模倣(絵)という位置づけとなります。
プラトンからすれば、イデアを追求することが世界の発展だと思っていたわけですから、模倣の模倣の模倣の…となってしまう「芸術」という分野には、相容れない思いがあったようです。
「理想的な国家を作るためには、戯言を吹聴する詩人は追放すべきだ」という過激な主張もしていたのだとか言われています。
このように、イデアを追求し、正確に記録することをディエゲーシス(=ミメーシスの対義語)と呼ぶのですが。
ここから生まれた概念が、「ミメーシス(模倣)」と「ディエゲーシス(叙述)」の対立構造となるわけです。
ミメーシスと芸術の関わり
生涯ミメーシスに対して、否定的な態度であったプラトンに対し、弟子のアリストテレスは議論を反転させます。
「ミメーシス(模倣)は、時として本物を凌駕する価値を生み出すことがある」と述べ始めたのです。
これが、芸術における「不完全性の大切さ」という議論につながっていきます。ミロのヴィーナスなんかが、不完全性を持つ芸術の典型例ですよね。
すなわち、本物の価値を凌駕する模倣(ミメーシス)の不完全さこそが、人を魅了するのではないか?と考えたわけですね。
創作においてミメーシスが重要な理由
さて、ようやく本題ですが、
この『ミメーシス(模倣)』という概念が、何故創作や芸術の分野において重要なのかといえば、
ズバリ、その「不完全性」に、人を引きつける効果があるからです。
人は、事実に対して感情を動かすよりも、不完全な状態(=ミメーシス)から生まれる可能性や余韻に対して感情を動かす傾向があります。
幽霊なんかでも、「幽霊とは」で検索したら、「何もしてこなかったぽよ」という経験談の記載があったり、対処法や駆除剤のマニュアルが出てくるとしたら、あんまり怖くないですよね。
「襲われて大変な目に遭うかもしれない」という可能性に、過敏に反応するのです。
当たるか当たらないかわからないからこそ、可能性に心を動かして、民衆は年末に宝くじや馬券を購入し、男性はパンチラにロマンを感じるわけなんです。
正直、ミロのヴィーナスの不完全性について語られても、よくわからないというのが本音だったのですが。
不完全すぎる状態がゆえに、理解できなかったというわけですね。
教科書にある偉人の顔写真の下に胴体を落書きしていた学生の頃を思い出すと、理解しやすいと思います。
「不完全性」というのは、芸術の根幹にある概念なのかもしれませんね。
そういう意味で、私たちは世界観やストーリー、キャラクターから文章表現を考える際、それぞれをどれくらい不完全にすれば、魅力的かつ伝わるかを考える必要があるのです。
初心者のための簡単すぎる解説編
「まだ、よくわからん!」という方のために。話を超端的にまとめると、以下のとおりです。
ソクラテス < なんか神様から、お前一番賢いって言われたけど。俺、そんなに賢いつもりないぞ?
賢者たち < よく来たな。ソクラテスよ。私は何々に詳しい物知りなのでデアール!(実は無能)
ソクラテス < いや、お前らほとんどわかってないやんけ。それどころか、知らないことに自覚ないし…。ちゃんと勉強しろ!
権力者たち < 勉強しても意味ないもん!ハイ論破!こいつ極刑な!
プラトン < 師の思いは受け継いだぞ!ちょっと、田舎にこもってくる。
ー デデーン『イ・デ・ア・論』登 場 ☆ ー
プラトン < 『イデア論』考えてたら、「勉強する=前世の記憶を取り戻す」とかいう結論になった。つまり、勉強すれば、理想の国家を作り出せるんや!!
プラトン < 研究に意義あり!大学を創るぞおお!!おら、みんな芸術を捨てて、研究しろや!詩人追放!
アリストテレス < プラトン学長の学校卒業したんけど、あまりに真実を重要視しすぎると、ツマンナクない?芸術って模倣(ミメーシス)する際の不完全性にこそ、良さがあるんだと思うんだよな~。
プラトン < チーン(寿命)
アリストテレス < ミメーシス(芸術の不完全さ) IS 最高!! WHOOOO!!
読者 < 不完全すぎて、理解できねぇ…
管理人らぴ < ちょうどいい感じに、不完全な作品になるように調整しようぜ!
~FIN?~
すみません。ちょっと、雑すぎたかもしれないですが(笑)
まぁ、哲学に興味ない人からすれば、これくらいがちょうどいいのではないでしょうか?(笑)
ディエゲーシスには、芸術性がないのか?
ここまでの話を聞いているだけだと、あたかも『ミメーシス』こそ芸術性そのものであって、
対をなしている『ディエゲーシス』は、不要なもの?と勘違いされるかもしれないので、一応補足を入れておきます。
ここまでの話をまとめて物語論として提唱したのが、フランスの文学理論家である「ジェラール・ジュネット」氏であるわけなのですが。
ジュネットは、物語においては『ミメーシス』も『ディエゲーシス』も必要であるというような論法を取っています。
そもそも『ミメーシス』という言葉の原義からして、イデア(=私たちの知覚できないもの)以外は、すべてミメーシスなのですから。この世には、ミメーシスしかそもそも存在していません。
便宜上、イデアに近づくことを追求した『ミメーシス』のことを『ディエゲーシス』と言っているにすぎないのです。
また、小説の場合は、ミロのヴィーナスのように不完全すぎて読者に理解されづらいのも困るので、ディエゲーシスも大切になるというわけです。
まとめ
ここまでの議論を踏まえて、「ミメーシス」と「ディエゲーシス」の対立は、一体私たちに何を語り伝えたかったのか?ということをまとめると、以下のようになるのではないでしょうか。
『ミメーシス』は、その不完全性により、時に人々を魅了するけれど、
その一方で、不完全性が高すぎると理解されにくくなるので、『ディエゲーシス』とのバランスが大切になる。
そして、この不完全性は、キャラクターの魅力や文体の魅力、プロットの組み方にすら影響を及ぼすことになります。これが非常に、おもしろいんですよ!!
それらの解説記事は、下の方に貼っておきましたので、是非このアハ体験を味わってくれると嬉しいですね!
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