文芸評論・文学批評の書き方入門 – 小説新人賞の評価シートが生まれるまで!
出版社で編集者といった立場に立たされたとき、ふと「小説ってどうやって評価すればいいんだっけ?」と疑問に思うこともあるのではないかと思います。
また、小説家の方でもいま自分が書いているものが、なかなか選考に通らなかったりするとやるせないものですよね。そうならないためにも、今回は小説の評価基準というものをしっかりと理解した上で受け入れていく技術を学んでいくことにしましょう。
ここで一つ勘違いをしないで欲しいのですが、評価基準を守りましょうとか、なにもそういったどこかの偉い人が述べそうなことが言いたいわけではありません。
あくまで新人賞の評価基準ができた経緯はこういうものであって、新人賞からデビューするような稼ぎ方で生計を立てていく方が向いているのかどうか、判断するために知っておいた方が良いかも知れない、という主旨でお話していければと思います。
たとえ、レーベルの評価シートでボロカスに言われていたとしても、自分自身の作品に対して正当な評価を行えるだけの技術はメンタル面でプラスに働いてくれることでしょう。
いい小説とは何か?
そもそも「いい小説」や「傑作」とは、何でしょうか?
結論から言えば、現代における文芸批評では物語の構造がしっかりとしていることを客観的に評価していくのが主流なようです。
ここで私見を述べるのも良いですが、それだと偏った考え方をお伝えしてしまう可能性もあるので、ここで一つ「文芸批評の歴史」から学ぶことにしましょう。
時代は、十八世紀までさかのぼることになります。当時、ヨーロッパ地域では絶対王政による国家統治が行われていました。
しかし、ここで『フランス革命』が起こります。フランス革命というのは、絶対王政といった王族や貴族による政治体制から市民による政治体制(=資本主義や共産主義)へ政治の様相を変化させていくことを目的としていました。
一方、当時の文学における主流は英文学です。つまり、貴族制を持っていた国であるイギリスの文学でした。といっても、当時の文学というのは、あくまで娯楽のようなもので大学でわざわざ学ぶようなものではないと考えられていました。
この時代に、フランス革命を目の当たりにしていたイギリスのマシュー・アーノルドという人物は、労働階級を統制していた中産階級(労働階級の一つ上の階級)が、資本主義や共産主義へ走らないために教養を付けさせようと動き出します。
これはどういうことかというと、資本主義で金に目がくらんでいく人々をみて、宗教や神話(=物語)の力をもう一度行使しようと考えていたようです。マシュー・アーノルド著の『教養と無秩序』に、その片鱗をみることができます。
かんたんに言えば、「金がすべてじゃねぇ!」と言って民衆が資本主義に走らないように道徳教育をしようとしたわけですね。そんなこんなで、文学は単なる遊びではなくなったことにより、文芸批評の歴史が堂々幕開けすることとなります。
そこで始まったのが「印象批評」と呼ばれるものです。
印象批評というのは、客観的尺度によらず、作品から受けた主観的な印象に基づいて文学を論じようとする批評のことです。
ありていに言えば、「彼はこうしたから不幸になったんだよ。だから、こうしようね」といった道徳教育の教科書に載ってそうなコンセプトの作品に対して、「作者は、こういう意図を持って書いているに違いない!素晴らしい!」とまぁ、こんな感じで批評していったわけです。
その中でも、ウィリアム・エンプソンという人物は、天才的な分析眼で作者の潜在意識や図星を付きまくり、合理的かつ手際よく作品を批評していったとされています。
しかし、これは彼が天才ゆえに実現できた批評方式でした。並々ならぬ知識と天才的な分析脳を持っていたからこそ、万人に認められるような批評が行えていたわけです。
こんな批評が続くわけもなく、素人読者の主観による批評もどきが乱立していきます。典型的な例としては「規範批評」が挙げられるでしょう。
かんたんに言えば、読者が自分の思い通りにならなかったストーリー展開を批判するばかりで、自分のほうがもっとましな作品を書けるという主旨になっているような傲慢さ極まりない評価方式でした。
それに加えて、貴族階級の人が労働階級の言論に対して印象で批評をしていたという構造もよくなかったのでしょう。
こんなものが創作界隈や政治的に認められるはずもなく、ケンブリッジ大学のスクルーティニー派と呼ばれる労働階級の学生たちが次第に暴徒化し、上流階級の行う印象批判に対して猛烈な攻撃をしかけていくことになります。
つまり、イギリスでは共産主義を排斥するために文学を大学に持ち込んでみたら、文学を発端として共産主義が台頭していったという皮肉な結果になったのです。
そこから文学は、政治と密接に絡みあって次第に道徳もどきを説く政治先導を目的とした道具となりさがり、文芸批評は一種の宗教信仰のような様相を呈して、やがてヨーロッパ全土へ広まっていくようになっていきます。
その結果、ロシアではロマ―ン・ヤコブソンを代表とするロシア・フォルマリズムと呼ばれる文学運動勢力が誕生しました。
彼らは形式や技法を最重要視し、内容なんてものはどうでもいいと印象批評に対して批判を繰り広げていきます。
これは文学をスクルーティニー派のように政治や歴史と絡めると宗教化してしまう可能性があるので、文学は政治や歴史からは切り離して科学的に批評されるべきだと主張したわけです。
ところが、当時のロシア(ソヴィエト)というのは、理想の国家を追い求めようという道徳教育的な内容を含んだ文学を繰り広げていました。社会主義リアリズムと呼ばれるものです。
スターリン政権が支持する理想の国家像を形作る文学に対して、「内容はどうでもいい」というロシア・フォルマリズムは弾圧の対象となり、やがてアメリカへ亡命させられることになってしまいます。
ちなみに、『昔話の形態学』で有名なウラジミール・プロップ氏もロシア・フォルマリストの一人です。
そして、このロシア・フォルマリズムという考え方は、当時南北に分かれていがみ合っていたアメリカの南部へ輸入されていくことになります。ここで生まれたのが、新批評(ニュー・クリティシズム)というものです。
新批評(ニュー・クリティシズム)というのは、かんたんに言えば今でいう伏線やトリックといったものを数式的に採点していこうという方式の批評です。
文学批評は、このような流れで評価の付け方を「主観評価」から「客観評価」へ変化させていったということなのですね。この話が現在の「構造主義」へ繋がっていくことになるのですが、長くなるのでここでは割愛させていただくとしましょう。
要するに、このような闘争の果てに人類は「客観評価」を採用していきました。
ただ、出版社に文学研究家がたくさん居るわけでもないので「主観評価」も多少交えた現実的に中和された形で、レーベルの「小説評価シート」という形になっているのだそうです。
つまり、「いい小説とは?」という問いに対する明確な答えはいまだ出てはいないけれど、歴史的背景の結果だけをみれば「物語の構造」を重視していることがわかります。
この良い構造というのを電撃文庫の某編集長さんの言葉を借りれば「いいねポイント」と呼ぶのでしょうね。「いいね」と思った再現性のある構造を評価する方式というわけです。
ただし、これはあくまで出版社が評価したがるという意味での「いい小説」であって、各個人から見ればそうとも限らないに決まっているので誤解のないようにお願いしますね。
新人賞選考に向いている人・いない人
さて、ここからは書き手視点の話になりますが、選考に通らなかったからといって全てが駄作というわけでありません。
先述の通り、物語がしっかりとした科学的な構造を持っていればいるほど有利なことは明らかでしょう。
つまり、物語を構造的に組み上げていくのが楽しい・出来るという方は新人賞に向いていると言えるでしょう。逆に、構造には全くといっていいほど興味がないし苦手という方には向いていないと思われます。
あ、でもちゃんと自分で行動してから考えてくださいね。無意識に良い構造の作品を書ける人もいらっしゃいますから、自分では興味がないと思っているだけかもしれないのです。
ここでお伝えしたかったのは、新人賞にどれだけ頑張っても通らなくて物語の構造を組み上げるのが苦手だし興味もなさすぎるような人は、新人賞より自費出版やエッセイスト、演出家といった別の道を模索する方が夢に近づくのかもしれないということです。
ちなみに、こういった理論的な採点方式に欠陥を唱えている作家さんも昔からいて、物語の古典であるホラティウス『詩論』にも、その片鱗をみることができるでしょう。
また、自費出版はAmazon・Kindleが圧倒的にオススメです。出版社が行う共同出版・協同出版というのは、基本的に詐欺案件が多すぎます。印税率も低いので、身の安全を考えるとKindleで出すのが良いと思います。
自費出版のやり方がわからない場合は、代行業者に任せてしまいましょう。結構、仕組みも複雑で難しいので専門家に任せるのも、一つ手だとおもいます。
▼ 新批評後の流れを知りたい方には、この本が役に立ってくれると思います!
なるほどですなあ