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マクルーハンのメディア論とは?|現代人が持つべきメディア・リテラシー入門!

マクルーハンのメディア論とは?


みなさん、こんにちは。創作支援サイト『作家の味方』の管理人らぴ(@kazakiribana2)と申します。

 

最近は、一般の方もYOUTUBEを通して動画配信をしてみたり、ブログや小説投稿サイトでエッセイや小説を簡単に公開することもできるような時代になってきました。

 

しかし、情報を発信する人が増えている一方で、情報を発信する手段である『メディア』については、あまり詳しくないという方も、まだまだ多いのではないでしょうか。

 

というわけで、今回は『メディア論』について小学生にもわかるように、その重要性や面白さを出来る限り噛み砕いてご説明できれば嬉しいです♪

 

結論から述べておきますと、マクルーハンのメディア論とは『メディアは情報を伝える透明な箱ではなく、メディア自体がメッセージなのである』というものです。LINEで感謝を伝えるのと、手紙で感謝を伝えるのでは印象が違うよねというお話ですね。

 

さらに言えば、テレビ(やインターネット)によって世界はこれまで以上に、村社会のようになっていくだろうから衝突を避けるためグローバル・スタンダードとなる倫理が、もっと大切になってくる時代が到来するだろうというお話です。

 

詳細が知りたい方は『マクルーハン理論から学ぶ(PDF)』を参考にしてみてください!





 

 

なぜメディア論が大切なのか?


例えば、あなたが物語や動画になるようなコンテンツを創りたいと考えていたとしましょう。

 

しかし、物語やコンテンツを発信したいのであれば、別に小説や動画を作らなくても伝えることは可能です。

 

物語であれば漫画でもチャット小説でもいいわけですし、本の要約をまとめるような動画コンテンツを創りたかったとしても、別に動画ではなくてブログやSNSだっていいわけです。

 

このように、もし自分が作りたいコンテンツがあるのであれば、現在使用しているメディア(媒体)が自分の目的と適合しているかという点は、改めて確認しておいたほうが上手くいくでしょう。

 

ちょうどこの間、絵本を書くのを辞めて「絵を書くべき」か「小説を書くべき」か迷っている方がいらっしゃったのですが、絵と文章の間をいくのは絵本だけではありません。『写真詩』や『イラストポエム』というメディアも存在しています。

 

かくいう私も、もともとは小説を書きたいと思っていたのですが、文章を書いてから読者から感想がくるまでのスパンが長すぎて、ブログのほうが向いていることに気づきました。

 

たくさんの選択肢があるいまの時代だからこそ「自分にあったメディアの形とは何か」、一度振り返ってじっくりと見つめ直してみてもいいのかもしれませんね!

 

作家のための編集力について


小説やブログを書いていると、意外と盲点となってくるのがメディア論における『編集力』だったりします。

 

これは新聞をイメージしてもらえばわかりやすいと思うのですが、度々マスメディアの偏向報道が取りだたされている話が聞こえてくることはないでしょうか。

 

新聞記事にしても物語にしても、全ての情報を読者に伝えることは物理的に不可能です。つまり、読者に伝えたい情報を多かれ少なかれ取捨選択する必要があるということですね。

 

有名な話ですが、例えば「①AさんがBさんを殴って」、「②BさんがAさんを殴り返して」、「③Aさんが号泣した」という事件があったとしましょう。

 

この時、編集で①の場面を削除すれば②と③だけを読者は読むことになりますから、「Bさんはなんて悪いやつだ!」となるわけです。

 

しかし、①~③が揃っていれば「Aさんの自業自得じゃないか?」という感想に変わるわけですね。もっと言ってしまうと①~③の出来事が起こる前に、Aさんが実はいじめにあっていたのかもしれません。そうすると、また感想も変わってくるでしょう。

 

このように、事実というものはどこを切りとるかによって、情報の受けてが持つ印象を操作することができるという性質を持っています。これが『編集力』です。

 

これは小説といったフィクション作品においても、十分活用できそうではないでしょうか。ただ、起こったであろう出来事を淡々と記述していくのではなく、語り尽くしたあとで改めて本当に必要なシーンだけに絞り込むということですね。

 

ここで重要なのは、ただ完成度が高いシーンだけに絞り込んでいけばいいというわけではないということです。マスメディアが巧みに偏向報道をたしかな意図を持って行なっているのと同様に、恣意的な切り抜きを行なう技術も創作においては大切になってくるということですね。

 

コツの具体例としては、クレショフ効果(対比)やモンタージュ理論、キャラクターのイメージを下げる場面だけ飛ばすといった技法が有名でしょう。

 

まぁ、あまり難しく考えなくてもいいと思います。仕事で電話を取った時に「あぁ、部長ならいまトイレで下痢してます」みたいなことは言わないじゃないですか?(笑)

 

「席を外しております~」みたいな感じで、だれだってちゃんと編集できる力は持っているんですよ。意図しているかしていないかの差しかありません。

 

また、これはブログにおいても同様です。先日、これからブロガーが生き残っていくためには、パクられない記事を書くためにイデオロギー(なぜ発信したいのか)を明確にしたほうが良いというお話をしておきましたが、なんでもかんでも多くを伝えれば良いのが、ブログというわけではないということです。

 

時には、必要のない情報を削る技術も大事なのでしょう。そういわれてみれば、情報を加えても減らしても構成がうまくまとまらない記事を作ってしまったとしたら、他の人にパクられても負けない究極完全体ですよね(笑)

 

そういう意味で言えば、公共放送や偏向報道をしない報道局が倫理を持つということは、すなわち正反対に偏向された報道の両者を比較して、真実を追求しようと努めているメディアなのではないでしょうか。

 

Amazonがレビューに★1を残しているのは、★1の意見と★5の意見を比較してこそ、購買者が公正な情報を得ることが出来るからだと思います。

 

メディア責任論について


また、最近はYOUTUBEやブログをメディアだと考えきれていない方も非常に多い印象を受けます。

 

「好きなことで生きていく」というのも良いですが、メディアというものは良くも悪くも強い影響力を持っていることを忘れてはいけません。見なきゃ良いといったって、見たあとにしかコンテンツの中身なんてわからんのです。

 

自分が持っている言論の自由を求めたい気持ちもわかるのですが、自由というものは他者の自由と時として衝突するものです。みんなが自由に振る舞っていたとすれば、某炎上系YOUTUBERと餃子店のような事件や論争しか生まれません。

 

いつの時代も人は、自由と束縛(愛)の関係性に頭を悩ませてきたものです。一説によると、これを乗り切るために作られたものが、他者を思いやる気持ち「倫理(人の嫌がることをしない)」という概念なのだそうです。

 

まぁ、少なくとも大衆に不快な思いをさせてしまったとすれば、それは放送倫理的に世に出す前に審議する余地はあるのかもしれませんね。

 

それはともかく、餃子くらいおいしく食える世の中にしような!(笑)

 

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