第一話 柴犬は空を飛べるか?
「部長、実家の犬が空中浮遊を覚えてしまったらしいので、今週、連休をいただけませんでしょうか?」
そう一言、冗談交じりに連休の打診をしてみたのは良かったのだけれど、どうやら即決で連休を頂けただけでなく「困ったらいつでも連絡をくれ、良い病院を紹介してやる」という、部長からのありがたいお言葉まで頂いてしまった。
もちろん、嘘をついていたわけではない。飼い犬のむぎちゃんが空を飛びだしたと、実家のおじいちゃんが大騒ぎし始めたらしいので「僕が、おじいちゃんを病院へ連れて行く」というお話なのだ。
おじいちゃんもいい歳だし、一応は心配して「むぎちゃんに羽でも生えてきたの?」とまじめにメッセージを送ってみれば「ははっ、わんちゃんに羽が生えとるわけなかろもん。悠ちゃん、いよいよ夏の暑さに頭でもやられてもうたんか?」と、おじいちゃんから大爆笑されたくらいなので、きっとそれほど大事ではないのだろう。
どちらかといえば、心配性なおばあちゃんを安心させるため、やむなく帰省しようという算段だったのだ。
地元へ続くワンマン電車の木床は、コトコトと空洞を感じさせるような大きめの音を立てて、僕の足をなつかしがるように迎え入れてくれていた。少し湿り気のある木材の芳香が、鼻をかすめる。
ほとんど席が空いているのは、昔となんら変わらない。日が差し込んでいる深緑色の長椅子へ腰をそっと降ろすと、梅雨明けの慣れない冷房と中和されてちょうどよかった。
帰省中の電車内というのは、なんとも時間にゆとりがあるからだろうか、過去にあったいろんな出来事が走馬灯のように、脳裏を駆け巡りがちだと思う。
あのとき、もっとこうしていればよかった。なんであんな恥ずかしいことをいってしまったのだろう、なんて思わず自分の顔を両手で覆ってしまいたくなるほどだ。そして、それは同時に、僕にとって自分を冷静に客観視できる貴重な機会でもあった。
過ぎ去ってしまった出来事をいまから変えるなんてことは、もはや誰にもできやしない。
そうであるならば、せめて少し先の未来で、自分がどう生きたいのかを考えることに専念するほうが、賢明というものではないだろうか。
いまの仕事をこのまま続けていくべきかという問題もあったし、趣味で書いている小説だって、本当に自分の書きたいものが何だったのか、ほとんど見失ってしまっていたと言っていい。
随分と不思議な話だが、ごく一部の人間を除けば、基本的に人は幸せになりたい生き物だと思う。
にもかかわらず、僕含めほとんどの人々は、自分がなにを幸せと感じるのか、いまこの瞬間本当にしていたいことはなんなのかということすら存外理解できていないのだ。
結局、何者にもなれないまま、今年も夏を迎えてしまった。今年こそは、と一体もう何度目になるのかわからないほど叶えることのできなかった願いを繰り返し言葉にする。
今年こそ、自分の夢をみつけてみせるさ。
そんな事を脳内で雄弁に語っていると、天井にぶら下げられている錆びた扇風機の漏らす風切り音が、備え付けの小さくて可愛らしい風鈴の音色と共に、微かに聞こえてくる。静まり返っている車内。どうりで妙に、集中できるというものだ。
天井に身を委ねていた橙色のつり革たちは、ゆらゆらとその振れを徐々に大きくしていく。車体の軋む音が騒がしくなったかとおもえば、もう目的の降車駅についたということなのだろう。
僕は、静止していた車両のドアを手で思い切り開け放ってみせると、向かい風を全身に浴びて、肺の中に渦巻いていた都会の空気と故郷の空気を交換する。
蒸し暑さの残る誰もいない寂れた駅のホームで、空飛ぶ犬の謎から、もう一度だけ懐かしいあの日へ戻れるような、そんな予感を僕はただひとり募らせていた――――。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お、久しぶりだなっ!ちび」
長い田んぼ道を歩くのも大変だろうと、白の軽量トラックで駅まで迎えに来てくれたのは、中学で同じ美術部に所属していた北島先輩だった。
僕のことを『ちび』と呼んではくるけれど、先輩が『のっぽ』なだけである。
いまは田舎にもどって、ブログと実家の畑仕事で生計を立てているらしい。
蝉の声にまみれながら、都会で使うことも滅多になかったであろう大きな声を思い出す。
「お久しぶりですね、先輩!」
軽トラの前に立っていたベージュの短パンをはいた先輩が「乗れよ」と手招きしてくれていたので、ありがたく助手席に乗らせてもらうことにする。
贅沢な悩みなのだろうけれど、空調はぬるい。先程まで、浴びていた電車の冷房が少し恋しくなってしまう。
「そういえば、その後ブロガーの生活はどうです?」
先輩は、ヨイショっと運転席側のドアを馴れた手付きで閉じてみせると、なんともはにかんだ表情で応じてくれた。
「まぁ、ボチボチだな。この辺は都会に比べちゃ家賃もほとんどないようなもんだし、なんとかなってはいるよ」
察するに「まぁ厳しいことには変わりはないけれど」といった但し書きが付いているように聞こえる。
ひさびさに見た先輩の印象はと言えば、すっかり年を取ってしまったなといったものだった。髪が短いので少し気づきにくくはあるけれど、白髪もちらほらと見て取れる。
「そういや、ちびこそ小説の調子はどうなんよ。今年も新作だすぞって意気込んどったろう?」
あぁ、それは……と、僕はすこし歯切れの悪い口ぶりになりながらも、少し悩んでいたことを先輩には率直に打ち明けてみることにした。
「もっと売れそうな物語を書けば、さっさと作家としてデビューして食べていけるようになるんじゃないかって思うんですけど、なんだかちょっと嫌なんですよね」
ははっ、あるあると言わんばかりに、先輩は首を縦に振ってみせる。
「そういうときはなー。意外と別の問題が、悩みのタネだったりするもんよ」
どういうことだろうと、僕の思考は気づけば口からこぼれ落ちてしまっていたらしい。
「別の問題……ですか?」
あぁ、と先輩は続ける。
「どんな作品を書いて作家になるかなんてのは、実のところ悩む程のことじゃないんだ。そんなことより、ちびが目指した『作家』ってやつが一体どんな存在なのか考えることの方が、よっぽど大事なんじゃないか?」
先輩はキョトンとしていたであろう僕の顔をみるやいなや、髪を手でクシャクシャにしてきた。
「ちょ! やめてくださいよっ!」
もし『通行人ボンバーヘット罪』という条項が法律へ追加されたときには、覚悟しておいてほしい。是非とも、法廷で会おうじゃないかと内心で誓いを立てる。
短いトンネルを抜けて、車はようやく地元の風景へと飛び込んでゆく。
田舎の道路というのは、路肩が狭いだけでなく道の端っこにかけての舗装が、どうにも雑草でボロボロにされてしまいがちなのだろう。ハンドルの操作ミスで、田んぼに突っ込んでしまわないか、時おり背筋に冷たい汗をかかせてくるものだ。
昨日の雨の影響なのか、農業水路の水は元気そうに跳ねている。郷愁を覚える水流の音に聞き入ろうとしたとき、僕の聞き耳は隣にいた先輩の声を吸い取った。
「それに、みんなが売れるとわかっているような作品があるとして、ライバルが少ないと思うか?あっちは、あっちでそれはもう熾烈な争いを繰り広げているんだろうよ」
あぁ、たしかに。隣の芝生は青い、とはよく言ったものかもしれないな。そう考えてみれば、さっき悩んでいた不満も、まったく幻想に過ぎなかったというわけだ。
大事なのは、手段じゃない。目的だ。どうやって作家になるかよりも、どうして作家になりたいのかの方が、大事だということなのだろう。心にのし掛かっていた重石がひとつ、ゆるりと落ちてゆくような気がした。
悠然と緑の広がる一帯からは、ほんのりと土の匂いが運ばれてくる。無人地帯に入ったことで、軽トラの走るスピードがあがってきているからだろう。
颯爽と移り変わる窓の景色からは、風が暴れんばかりに吹き込んで、さっきまで僕の頭を包んでいた夏の熱気が嘘のように、首筋を流れる風に吹き飛ばされてゆく。
それからしばらく、僕は窓越しに見える山林を眺めてうっとりとしていた。
「うっし、着いたな。おつかれさん!」
と、改めて告げられて、ようやく実家についていたことに気づかされる。久しぶりの再会に名残惜しい気持ちではあるけれど、どうせまたすぐに会えるだろう。
先輩の乗るトラックが徐々に小さくなっていくのを見送って、そっと踵を返す。
そこに待ち受けていたのは、浮き輪とシュノーケルを着けられ、困り果てたような表情で呆然と僕を見つめてくる柴犬むぎちゃんの「クゥン」という愛らしい鳴き声だった。
第二話 夏の宇宙へ
「お兄ちゃん! この超かわい~団扇あげるから扇いでよっ、ほら!」
白のビッグシルエットTシャツを着て、畳の上でうつ伏せになっている透夏(とうか)が、紙のうちわを手渡してくる。うちわには、よくわからない一本線に目を無理やりくっつけたような珍妙なキャラクターが印刷されていた。
「なんだ、この寄生虫みたいなの?」
「えっ、お兄ちゃん、もしかして知らないの!? いま流行ってるハリガネムシちゃんだよ。都会人なのに、お兄ちゃん遅れてるなぁー!」
いや、田舎が進み過ぎなんだよ。なんだそのマニアックなトレンド、流行らせたやつ出てこい。と、喉元まで出てきそうになりつつも、僕はスマートフォンの検索窓にハリガネムシちゃんとしっかり入力していた。誕生日は、昨日だったらしい。
まったく、女子高校生のトレンドというのは大人には、よくわからないものだ。僕は、故障中という張り紙をしてある扇風機の前で、いまにも宇宙人宣言をはじめそうな透夏へと情けの風を送ってやる。
「もしかして、学生のうちで犬にシュノーケルをつけるトレンドも、あったりはしないよな?」
僕は、帰りがけにむぎちゃんからシュノーケルと浮き輪をはずして、庭にある物干し竿に掛けておいたのだ。かなり砂がついてしまっていた。
透夏も高校生だし、そんな幼稚な悪戯はしないだろうけれど、誰がやったのか実のところ不明のままなのである。
「え、お兄ちゃん、そんな趣味あったの……?」
「いや、ないけどね?」
獣をみるような視線を注がれてしまったので、すかさず注釈を入れておく。
「ほら、僕が帰ってきたとき、むぎちゃんがシュノーケルと浮き輪を付けてたから、近所の子供と遊んでたのかなって思ってさ」
透夏は、うーんと神妙な面持ちで考えたあと、ある仮説を提示してれた。
「むぎちゃんも、クールビューティを目指したかったのかも?」
なんかもはや色々と的を間違えている気がするが、今日はやけに機嫌がいいらしい。真面目に考えていた風の表情を緩ませているではないか。
「あとさ。お兄ちゃんも……幻覚をみたとか言い出さない、よね?」
幻覚をみるレベルって、透夏は僕をどこまで重度のケモナー認定しているのだろう。一瞬だけ、表情に陰りが見えた気もするけれど、どうやらこの件に妹はまったく関与していなかったらしい。
そこでふと、ちょっとした違和感を覚えてしまう。実家の座敷にはエアコンこそ取り付けられているのだけれど、縁側がある建て付けの影響で、日沈までは冷房があまり効いてくれていないのだ。
しかしよく考えてみれば、こんなに暑いときに透夏が上機嫌というのもまったく珍しい話だとおもうのだ。なにか裏があるのだろうか?
兄貴なりのプライドが残っていたからだろう、また透夏に聞いて遅延系社会人と思われるのも心外だと、今日のニュースに目を通してみればビンゴである。
「へぇ、今日は近くにある宇宙センターから補給船シマエナガ9号の打ち上げがあるらしいな」
シマエナガといえば、北海道に生息しているスズメ科の野鳥の名前である。冬場になると、白い羽毛を溜め込んで雪だるまのようになることから雪の精霊と呼ばれることもあるそうな。
「そうそう、8時ごろからだって。楽しみだなぁ」
透夏は天体やら宇宙のことになると、目がない。そこで透夏が「あっ」となにかを思い出したかのように立ち上がってキッチンあたりをあさりだす。
帰ってきた透夏の表情は、といえば本当にわかりやすい顔面蒼白だった。
「ラムネアイス、切れてる……」
「えっ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
僕は結局、駄菓子屋で調達した家族分の安いラムネアイスを自転車のカゴに入れると、日陰でほっとひと息付いていた。
といっても、両親は僕が帰省すると知るやいなや旅行にでかけていってしまったし、祖父母が居るのは隣の建物なので、兄妹二本ずつの計四本だけだ。まぁ、兄妹とはいっても妹は養子なので、ほとんど歳の離れた幼馴染みたいなものなのだけれど。幸いなことに家庭環境は悪くない。
なぜ二本ずつなのかといえば、パッケージに水滴を印刷する食品メーカーの尖兵がずる賢かったからに決まっている。
家に帰るまでどうせ時間もあることだし、と僕の頭は次回作の原案を練ることに夢中になっていた。
せっかく打ち上げロケットや田舎の風景に関する資料も今なら簡単に入手できるわけだし、次回作は「夏の宇宙人と駄菓子屋」なんかをテーマにしてみても面白いかもしれない。
夏を舞台にした物語は数あれど、どうしてこうも夏に宇宙人が登場してくる作品は多いのだろうか。
お盆という文化が、祖霊や精霊を信仰するものだから?それとも、肝試しに登場してくる幽霊に、宇宙人説が囁かれているからだろうか?
幽霊といい宇宙人といい、人は文学に非日常を求めている傾向があるとおもう。宇宙人が本当にいるかどうかはわからないけれど、人はいつだって謎に惹かれるものなのだ。
あのキャラクターの恋路はどうなるのだろうとか、もし望みがひとつ叶うのなら人は何をするのだろうとか、ほんとうに枚挙に暇はない。
「謎」そのものを魅力の全面として出しているミステリー小説が、書店の一角を占めているのも、ある意味その証拠みたいなものだ。
数時間後、ほんの数キロ離れた場所でドデカイ打ち上げ花火を画策している研究者たちだって、きっと動機だけでみれば似たようなものに違いない。
つまるところ、「謎」こそがロマンを生み出すのである。
「もし題材探しで詰まったら深海、宇宙人、異次元なんでもいい。『謎』を探せ。きっと、話の種になる」
僕は気づいたことを将来の自分のためにスマートフォンのメモ帳に書き残すと、補給船シマエナガ9号の打ち上げ時刻まで後1時間を切っていることに気づいて、夕暮れ時の砂利道を焦りながら漕ぎ出した。
家に着くまでそんなに時間はかかっていないはずだったのだが、辺りはすっかり暗くなっている。リビングにいた透夏が、僕を急かす。
「お兄ちゃん、早くしないと! もう30分切ってるってば」
せっかくなので写真も撮りたいと、スマートフォンがポケットに入っていることを再確認。部屋の電気を消して、縁側から海がある方角をいまかいまかと見上げる。
もしかすると、思ったより自分のほうが妹の数倍はしゃいでるのかもしれない。アイスを冷凍庫に入れそびれそうになっていた。
ラジオの情報を元に、カメラの位置を整え終えてしばらく、遠くの地上で閃光が輝きだすのが見てとれた。
ちょっと遅れて地響きのような音も聞こえてくるけれど、地震みたいに地面を揺るがしているわけではない。
打ち上げられた大きな光の玉は、この世の終わりを叫んでいるような甲高い音で、暗い夏の夜空を掻き分けてゆく。後に教科書に乗っていたとしても、おかしくないだろう。打ち上げの迫力は、僕の視線を釘付けにするには十分な光景だった。
この打ち上げには、きっと大勢の血の滲むような努力が掛かっていたのだろう。ラジオからは、燃料タンクの切り離しが無事成功したという知らせと共に歓声が湧き上がっていた。
職業病というべきだろうか。いつか、この打ち上げ計画についても映画化するのかもしれないと思うと、僕は羨ましさと憧れが混ざりあった複雑な気持ちに襲われる。
ともあれ、人の心を動かす瞬間というものは、いままで周囲から無理だといわれていたことを、こうして目の前でまざまざとやってのけられた時にこそ、訪れるものなのかもしれない。
第三話 モーニング・モンティクリスト
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