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ポリフォニーの意味とは?|小説家ドストエフスキーに学ぶミハイル・バフチンの対話理論をわかりやすく解説してみる

ポリフォニーの意味とは?


ポリフォニー (polyphony)とは、複数の独立したパートからなる音楽のことを指す言葉ですが、文学においては複数の独立した思想を持つ登場人物たちが織りなす群像型の物語構成のことを意味する用語です。

 

ロシアの文芸批評家ミハイル・バフチン氏が、著書「ドストエフスキーの詩学」という評論のなかで群像劇型の作風であるドストエフスキーの作品と、それまで西洋諸国において主流であったモノローグ的な作風であるレフ・トルストイの作品を比較する際に、持ち出したと言われているそうです。

 

ちなみに、ミハイル・バフチン氏がドストエフスキーのポリフォニー的な作風を評価した理由は、時代背景や社会情勢によって陳腐化しにくい新たな小説の形式であると考えたからだと言われています。

 

これはどういうことかというと、文学というものは『書き手』と『読み手』の間で行われる対話であって、読み手を取り巻く社会環境が変化すれば、まったく同じ文学作品であったとしても作品の感じ取られ方は時代と共に都合よく変えられてしまうという欠点があったんですよね。

 

しかし、群像劇のように多種多様な思想を持った人々が意見を互いにぶつけ合いながら、生きていく姿を描くポリフォニー小説というのは、読者を取り巻く時代背景や社会環境に左右されることがあまりなく、いつの時代においても通用する作品を創る上では、大切な要素になってくるのではないかと考えていたわけです。

 

まぁ、すでに群像劇型の作風に新鮮味を感じていない現代人である私たちからすれば「ふーん」で片付けてしまいそうなお話ですが、作品の質を上げる編集という工程においては無視できない技術となってくることでしょう。





 

編集技術としてのポリフォニー論


そもそも編集者といえば、作家さんのパフォーマンスに合わせたスケジュール調整を行なったり、作家さんの相談役として精神的な部分からサポートをする役という印象を持たれているかもしれません。

 

もちろん、そういった役回りをすることもあるでしょうけれど、一般的に集者の主務はといえば『作品の質を向上させること』のはずです。

 

特に、インターネットの普及が進み情報が氾濫している現代において、作品の質を高めるという工程は非常に価値のあるものとなってきていると言って良いでしょう。

 

ただ、小説を書いている側としては何か違和感を覚えるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。そもそも編集者って必要なのかなって、思ったことありません?

 

「作品の質を向上させる」と言われれば聞こえはいいですが、マイノリティ(少数派)や商売目的ではない文学作品を書いている作者からすれば、売れるという意味で作品の質を向上させようとしてくる編集者というのは大衆迎合主義の刺客とも捉えられかねませんよね。

 

それでは、マイノリティな価値観に基づく文学作品を描く作者にとって、編集者という存在は必ずしも害をなす存在たりえてしまうのでしょうか?

 

この問に答える上で参考になるのが、先述しておいたバフチンのポリフォニー論でしょう。

 

結論から言えば、マイノリティな価値観に基づく文学作品においても、編集者によって作品の質を芸術的な目線から向上させていくことは可能でしょう。ただし、編集者がポリフォニー論に精通しておく必要はあります。





 

結局、ポリフォニー論ってなによ?


ポリフォニー論を少々雑ですがわかりやすく説明するとすれば、文学というものは『書き手』と『読み手』の対話によって生じているものであって、書き手の一方的なモノローグは対話に劣るという考え方です。

 

つまり、一方的に語りまくる人の話はたまに理解できないこともあるけれど、他者との対話を通すことによって異なった価値観の人にも通じるように編集してあげることは大切なのではないかということですね。

 

例えば、学校の教科書を読んでいるだけだと理解できないことってないでしょうか。ここはどういう意味だろうとか、引っ掛かったときには先生に聞いたりしている学生も当然のように居たことでしょう。

 

しかし、小説を出版する作者にとって、こういったやりとりを読者と直接交わすことは一般的にできません。だからこそ、編集者が間に入って「これはどういうこと?」と感じた部分を作者に伝え、作者が当たり前だと思ってすっとばしてしまっている思考の粗を文章に落とし込む手伝いをしたりするわけです。

 

このように編集者の仕事というのは、本来は削るべきものを削り読者が理解しやすいように必要なものを足したり、配列を変更させたりするだけに留まるものであって、面白くするのは作者の仕事のはずなんです。

 

ただ、編集者という立場もなかなか肩身の狭いもので、作者と同じようにあるいは作者以上に「売れるかどうか」という目線を外部から要求されてしまうが故に、マイノリティ的な価値観を塗りつぶす結果を招いてしまうこともないとは言い切れない状況だとは思います。

 

実際、漫画が連載期間を無理やり引き伸ばした結果、一部の読者に離れられてしまうことなんてよくあります。作品の質を多少薄めて、一部の読者が離れたとしても連載期間を引き伸ばしたほうがお金になるからですね。

 

根本的には編集者が置かれている環境に一番の問題があるのでしょう。大手出版社における紙媒体の編集者は出版不況により人員が削減されていますが、WEBメディアにおける編集者のニーズは情報量に比例して急騰していたりします。

 

これはかなり歪な状況なのですが、個人が気軽で自由に出版できる現代になったからこそ、フリーランス編集者も増加しています。結果として、作品制作に協力してもらう編集者に本当に技術力があるのか、見抜く必要が出てきました。

 

そういった観察眼を作家さんが適切に養うため、こういった編集に関する知見を持っておくと、WIN-WINの関係を築いていく際には役に立つこともあるかもしれません。

 

さて、今回はポリフォニー論について話をしてみたのですが、個人的には「ひぐらしのなく頃に」がなぜあんなに面白かったのか、腑に落ちた気がしました。

 

ひぐらしって要するに「一人で抱え込まないで、みんなで協力しよう!」っていうコンセプトが中心にあるわけですが、もし登場人物同士の交差する対話がなかったとしたら綺麗事にしか聞こえないですもん。そういった意味で、群像劇型をうまく使いこなしているいい例なのかもしれないと思わされました。

 

また、ミハイル・バフチンが絶賛していたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、ほとんどオールジャンルをカバーしつつ、多種多様な社会問題について異なる思想を持つ人が対話していることから、文學界のラスボスと言われていたりします(笑)

 

小説を書く者としては一度目を通しておきたいところですね。ロシア語の翻訳ということもあり、多少読みづらい部分もありますが、傑作といわれただけある面白さもありますし、なにより多種多様なジャンルを一度に読めるという意味では、学べることも多いのではないかと思います。

 

あと、文学通ぶってメガネクイックイできます(笑)

 

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