信頼・信用できない語り手(Unreliable narrator)とは?
信頼できない語り手(信用できない語り手)とは、小説や映画において主人公が重度の精神疾患を抱えていたり、記憶の欠落、強力な偏見などを持っていることによって、読者に状況を伝える際に著しくバイアスがかかることを利用して、読者をミスリードする技法のことです。
たとえば、記憶喪失の主人公などが良い例になるでしょう。
仮に、重度の記憶喪失を患った主人公が入院していたとして、本人はなぜ入院しているかということすら忘れているため、なぜ自分が病院にいるのかどうしても思い出せません。それどころか、自分がいる場所が「病院」だということすらわからないかもしれません。
こういった状況の場合、主人公が「病院」とわかるような言葉を一切伏せた状態で、物語を読者へ語りはじめることがあります。
これを読者側からみると「主人公の記憶がない」ということと「建物から逃げ出すと強制的に部屋へ戻されて、監禁されているということ」しか伝わりようがなく、まさか主人公が病院にいるとは気づけない構成になっているというわけですね。
その結果、読者は「謎の組織」に追われる理由や、「無くした記憶が何なのか?」について、あることないこと妄想を膨らませることができます。このように、読者に事件を推理させるような効果があったりします。
こうやって読者に伝わっている情報だけをみれば、あたかも「謎の組織に追われる記憶喪失のキャラクター」としかみることができないので、読者はキャラクターがどんな記憶を失っていたのかを推測するしかなくなります。
参考になる映画であれば「ジョーカー」、小説であればアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」といった作品があげられます。
また、あまり知られていないようですが「クトゥルフ神話(TRPG)」も代表的な作品として、取りあげられることがあります。
これは「クトゥルフ神話」におけるプレイヤーが「記憶を失っている状態」や「恐怖に正気を失ってしまった状態」から話をスタートしがちで、プレイヤー間で情報が見事に錯綜する構造から自分たちが物語の作者となり楽しめるような構造になっているからです。
「人狼」というゲームも、情報が錯綜するのを楽しむという構造だけみてみれば、似たようなものです。
以前、物語(演劇)の起源は、「政治演説」の可視化から来ているという話をしたことがあるのですが、クトゥルフ神話や人狼というのは「政治演説の内容を、みんなで考える会議そのもの」の可視化なのかもしれませんね。
信頼・信用できない語り手の種類
信頼できない語り手の種類としては、上で説明した「疾患を抱えている語り手」に加えて「読者を騙そうという悪意をもった語り手」や「子供のために判断が未熟な語り手」、「偏見がひどすぎる語り手」などがあるようです。
「読者を騙そうとする悪意をもった語り手」というのは、自分が事件の犯人なので読者に気づかれないように、小説の文章中で自分に都合の悪い描写だけを、はぶいて描いていた事があとになって刑事に指摘されるなどのトリックがあります。
そういった意味では、作中の登場人物が読者の存在を意識しているという点で「第四の壁」を突き破っている演出技法とも取ることが出来ます。※第四の壁とは、作中と現実世界の境界線のことです。
ただ、こういった描き方には賛否があったりもします。というのも、ミステリー作品を描くうえで守るべきルールとして有名な「ヴァン・ダインの二十則」や「ノックスの十戒」を完全に破っているからです。
専門用語を使わずにかんたんにいってしまえば「ミステリーを描くのであれば、証拠は作中に必ずいれて白日のもとにさらさなければいけない。でなければ、超常現象によって事件を解決したようにしかみえず面白くなくなる」という指摘が「ヴァン・ダインの二十則」や「ノックスの十戒」と呼ばれるものなのですが、
この「信頼できない語り手」という技法の中でも、「悪意をもった語り手」というのは事件を解決するためのピースそのものを読者に開示していないのだからアンフェア(不公平)だろうという指摘があるのです。
とはいえ、大ヒットしたことには間違いないので、型破りする技術として記憶の片隅にとどめておいていただければとおもいます。
また、信頼できない語り手が作中に一人とも限りません。2人いたり、もっと沢山いることもあるようです。
ちなみに、冒頭の説明では「信頼できない語り手」とは、「小説や映画において主人公が重度の精神疾患を抱えていたり、記憶の欠落、強力な偏見などを持っていることによって、読者に状況を伝える際に著しくバイアスがかかることを利用して、読者をミスリードする技法のこと」と説明しておきましたが、厳密には少しだけ違います。
正確に言えば「主人公」ではなく「語り手」です。というわけで、語り手の意味についても確認しておきましょう。
『語り手』の意味と主人公との違い
これは絵本の読み聞かせを例に取ると、わかりやすいでしょう。
たとえば、子供がお母さんに絵本を読んでもらっているとき、絵本の中で主役を演じている登場人物が主人公です。
一方、このときの語り手というのは文字通りお母さんのことを意味します。
これが小説になると、実際に声に出して読む人はいませんが、声を出していたお母さんの読み方(抑揚や捕捉説明の仕方など)は、文中に入り込んでくることになります。
そのため、一人称小説では主人公と語り手が同一人物となることも多く、違いがよくわからなくなりがちです。
ただ、三人称小説に属する群像劇といった作風のものにおいては、主役級の人物が複数いることもあるので、そういった場合には主役全員を俯瞰視できる存在が必要になります。
仮に全体を俯瞰できる登場人物がいるとすれば、その人物が語り手といえるでしょう。
もちろん、そういった人物が作品の表舞台に登場してこない場合もあります。これが語り手という存在で、主人公とは異なる場合がある所以です。
小説における「語り手」のポジション
「語り手」という概念は、かんたんに思えるようで実際は、とてつもなく定義するのが難しいとされてきているので、前談から入りたいとおもいます。
まず、昔から物語を構造的に分解する試みは何度も行われ、現代においてもおびただしい数の本が出版されていますが、現代におけるその目的は「思い通りの物語を作ること」にあります。
そして、思い通りの物語を作るためには「物語」を分析する必要があるだろうと考えたわけです。おいしいパンを作るために、全国のパンを食べまわって人気商品の傾向を分析しているのと似たようなものです。
そこで物語の構造を分析していった結果、私たちは物語が3つの要素から構成されていることに気づくことが出来たそうなのです。
それが「ナラシオン(語り手)・ストーリー(内容)・レシ(表現)」だったのだとか。つまり、「誰が、何を、どう表現するのか」という三要素に落ち着いたというわけですね。
まぁ、言われてみれば「そりゃそうだ」ですねw このナラシオンというのが「語り手」と呼ばれるものです。
以前、「文体とは何か?」/「視点とは何か?」という記事の解説で、「文体とは、着眼点のことである」「視点とは、カメラ本体の位置(立脚点)とカメラが捉えている対象(着眼点)に分けられる」と説明していました。
なんだか、文体も視点も似たような記述になっていませんか?これは何故かと言うと「語り手」が文章の書き方に与える影響の結果が「文体」であり、「語り手」が物語の作り方に与える影響の結果が「視点」だからなんです。
つまるところ、「語り手」というのは人物像だったので人それぞれ過ぎて定義するのが難しかったというわけなのです。
たとえば、語り手が作者自身であったら「エッセイ風」になりますし、作者の個性が「文章」や「考え方」といったところにダイレクトに反映されていきます。
一方、語り手があくまで作者ではなく「キャラクター」だったとすれば、キャラクターの個性が「文章」や「考え方」といったところにダイレクトに反映されることになります。
その他にも、語り手を「キャラクター」とした上で、キャラクターの個性をあえて「文章」や「考え方」には反映させないようにするような作品(群像劇など)もあります。
一番最初に述べたエッセイ風のものが、いわゆる一人称視点と呼ばれるもの。次のキャラクターを起用したものが三人称一元視点と呼ばれるもの。最後の俯瞰的な作風のものが、群像劇やグランドホテル型の三人称神視点と呼ばれるものに分類されていくことになるのでしょう。
こんな物語の難しくて厄介なところだけを煮詰めて固めたような「語り手(ナラシオン)」ですが、ここまで押さえられていれば問題は何もありません。
ストーリー(内容)を工夫しようとしているのがプロット理論(起承転結や三幕構成)、レシ(表現)を工夫しようとしているのが修辞学(描写、文章表現力の分野)。
そして、ナラシオン(語り手)を工夫しようとしているのが「叙述トリック」や「キャラクター造形」、「オリジナリティ」という分野だということだけ、おさえておければ今は十分でしょう!
▼ミステリーの書き方については、こちらの本が一番オススメです!
指南書ではなく、ミステリー小説界の傑作『アクロイド殺し』を読んでみるのも楽しみながら学べる良い機会になるかもしれませんね(`・ω・´)ゞ
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