行間とはなにか?|具体例で学ぶ行間を読む力を鍛える方法とは
「行間(英語:line spacing)」とは、話し手や聞き手の過去の経験を通して、自然と汲み取れるようになる言外にある意図のことです。
また、言葉の中から発言者の言外の意図を汲み取ることを「行間を読む(英語:read between the lines)」と言います。
「行間を読む」の具体例
たとえば、ある日友人からLINEなどで「今日話せる?」メッセージが来ていたとして、以前からこのメッセージのあとに通話を繋いでいたとしましょう。
しかし、これが初対面の人であれば「今日話せる?」というメッセージだけでは、「通話で話せる?」と聞いているのか、「カフェかどこかで逢って話せる?」と聞いているのかは定かではなくなります。
つまり、聞き手は発信者の過去を想起して「今日話せるか?」というメッセージから、無自覚にも「(通話で)今日話せるか?」という行間を読み取ったということなのです。
このように、「行間」というのは「過去の経験に基づいて、自然と得られる言外の意図」に相当する部分のことを指します。
行間を上手く用いることができれば、コミュニケーションコストの大幅な削減が可能となるでしょう。
行間を読む力の鍛え方
コミュニケーションや文章読解の際に「行間を読む」のが難しいと感じるのは、シンプルに発言者と接している時間が短いためです。
慣れるまでコミュニケーションをとれば、次第に阿吽の呼吸を習得できるようになるでしょう。
また、あまりにも行間が読めないというのであれば、義務教育で勉強するようなテキストで読解のトレーニングをするようにすると効率的です。
過去の経験が似ている人ほどコミュニケーションが円滑に進む傾向にあるというのも、ここから来ているのかもしれませんね。
「筆者の気持ちを答えよ」の真意について
以前、「筆者の気持ちを答えよ」といった設問に対して、不満が噴出して炎上していたことがありました。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか?
結論から述べるとすれば、自由と束縛のどちらを欲するかという問題が常に存在しているからでしょう。
もう少し噛み砕いて説明してみることにしたいと思います。通常、どんな理論も「問題があって解決策が存在する」というわけではありません。
本当は「理論を構築する目的が最初にあって、その目的に合うようなもっともらしい道筋(ストーリー)を作り込んでいく」のが、問題解決の本質なのです。
つまり、義務教育である国語という科目の役割としては「日本という国に、共通の言語を構築すること」なわけですから。
厳密な設問へ置き換えるとすれば「筆者の気持ちを答えよ」ではなく、「『筆者の気持ちを答えよ』と設問を設けたときに、多数派がどんな気持ちを想像する傾向にあるかを答えよ」と問うているわけです。
厳しい言い方をすれば、「筆者の気持ちを答えよ」という言葉の行間を汲み取らないまま、国語の設問へ取り組むこと自体が、国語という科目の主旨に反するものなので、採点時にバツをつけられても文句は言えないという側面もあるのでしょう。
とはいえ、多数派の意見が必ずしも正義であるというわけでもありませんし、受験戦争が就職格差といった深刻な経済的問題へ直結する環境においては、思想の大衆迎合性が点数に反映されるのはナンセンスと言われても仕方ないことではあるのでしょう。
勉強しなくても国語の点数が高いというのは、単に大衆と似た価値観を持った性格の持ち主であるだけの可能性があります。
結局のところ、コミュニケーションで齟齬が生じやすい言語を使って仕事をするとしんどいのであれば、やはり国語は勉強しておいて損はないものですし。
自由な解釈こそが正義であると感じるのなら、いっそのこと開き直ってコミュニケーションが取れない人とは距離を置くというのも、最終的には個々人の目的に応じて使い分けると良いのではないかと思います。
行間の作り方
「行間」には、先述のようなデメリットやメリットが存在していたわけですが。
逆を言えば、小説や文章においても行間を作ることによって、書き手と読み手のコミュニケーションコストを削減しテンポの良い文章を作ることにも貢献してくれることでしょう。
冗長な文章が続くと、読み手としても長くて退屈な時間が多く。読書から離脱したくなります。可能であれば、面白い部分だけをかいつまんでほしいと思ったことは、誰しも一度くらいはあるのではないでしょうか。
そういったテンポの良い文章を書きたいのであれば、別の文から察することができる不要な文を削減して文章をスリムにしておいたり、「〇〇の動作をしたら■■という意味だ(例:手をあわせる→錬金術が発動する)」といったテンプレを用意してあげると良いでしょう。
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