作家の味方

Project Creator's Ally

天宮結衣のQ.E.D. ~幸せのクオリア~ – 第二十章:醜い蝶は、誰よりも幸せに

説明ページに戻る

 

第三十五節 醜い蝶は、誰よりも幸せに。

僕は、水彩画の世界に迷い込んでいた。コマ撮り映画のように、水彩画は滲みながらカクカクと動く。

 

髪の短い小さな男の子が、周囲の人々にイタズラをして迷惑をかけているように見えた。彼の親はといえば、わが子可愛さ故に叱ろうともせず、彼の行動をただ遠目に見ているだけだった。

 

僕は、この物語を知っている気がする。

 

視界の上からは、唐突に濃い水色の絵の具がドバドバと絶えることなく溢れ出してくる。水色は全身をずぶ濡れにしたかと思えば、大きな河川となって男の子を襲いだした。

 

たしか、グリム童話にあったお話だ。

 

その男の子は溺れ死んで、埋葬されてしまったのだけれど。死んでもなお、土葬から手を出して人目掛けて砂を撒き散らし続けている。

 

それまで黙ってみていた男の子の母と思われる女性も、遂に声を荒げて叫ぶ。

 

「あなたって子は、死んでまで人様に迷惑をかけて!」と、

 

やっと叱ってもらえた男の子は、とても満足したかのように、土の中で安らかに永遠の眠りについたのであった。

 

△  ▼  △  ▼  △

 

夢から覚めた僕は、瞼を開けようとして近づく人の気配に息を殺して身構えてしまった。天然水のように澄み渡った女性の声が、僕の耳介に魔法をかける。

 

「私もあなたのことが好きです。だから、私のことは忘れてくださいね」

 

記憶が走馬灯のように、閉じた瞼の裏側を彩り駆け抜けていく錯覚に陥る。フィルムの最後尾に映っていたのは、初めて結衣に会ったときの表情だった。

 

このままでは――。

 

襖の閉じる音が、響き渡る。しばらく呆気にとられていた僕は、ピッタリとくっついていた自分の瞼を大きく見開くと、左手で畳を打ちつけた。

 

このままで、終わらせるわけにはいかない!

 

僕は、廊下に通じる襖を思い切りよく開け放つと、冷たいツルツルとした床の上に音を立てながら、受付から聞こえてくる声に目掛けて勢いよく走った。結衣のわがままなんてお見通しだ。

 

「結衣!」

 

スローモーション再生のように、結衣の明るい髪の毛が左右に広がる。振り向いた彼女の驚いた表情は、豆鉄砲でもくらったかのように淡い紫色の瞳を広げている。彼女の手を力強く掴む。唇は歪んでいた。

 

「離して! 甘えてるだけじゃダメなの! もうこれ以上、幸せに手を伸ばすのが怖いの!」

 

結衣の細い眉が谷を刻む。寝起きで走ったせいか、やけに動悸を強く感じる。僕は荒れていた呼吸を整えると、彼女の全身を抱き寄せて口を開いた。

 

「……かけろよ。好きなだけ迷惑かけろ。わがままでいいじゃねーか。ちゃんと叱ってやるのが大人だろ。恋人の役目だろ?」

 

結衣の力が抜けていったせいか、次第に彼女の体重がのしかかる。揺れていた彼女の肩は、その振幅を少しずつ小さくしていった。

 

「私はもういなくなるんだよ? 新さんをきっと苦しめることになる」

 

あぁ。彼女の涙ぐんだ声に誘われて、目元が熱くなるのを噛み締める。

 

「もっと一緒にいたいよ」

 

あぁ。

 

「言ったろ! 大丈夫なんだ。必ず助けてみせる」

 

小刻みに震えていた結衣は、僕の肩を元気よく両手で撥ね付けると、泣き腫らした後の儚げな笑顔で、本当のわがままを今更突きだしてきた。

 

「ねぇ、新さんなら、私の余った時間、もらってくれますか?」

 

「あぁ。モアイに誓ってな」

 

どんなに醜くても誰に何を言われようとも、僕たちはきっと世界中の誰よりも幸せだ。

 

[第十九章へ]  ≪ ー・ー ≫  [続きを読む]

 

[講座説明に戻る]

コメントを書き込む

*

CAPTCHA


本気で小説家を目指す方向け!



Return Top