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天宮結衣のQ.E.D. ~幸せのクオリア~ – 第五章:衝動

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第七節 天宮結衣の脱走計画

私には病院を脱走する理由などなかった。わたしはただ、いまの感情にできるだけ素直になりたかっただけなのだ。

 

トタンに落ちる雨くずの滴る音が、私のぼやきごと洗い流していく。

 

理由なんて、理論なんて、人が決めた後付けの規則性にすぎない。病院を出たくらいじゃ、きっと対して人生に変化なんてないかもしれない。

 

薄暗い病院の廊下は、誰も止めないぞと、私の決断を揺さぶってくる。

 

それでも、たとえそうだったとしても、わたしはこの残された生涯を、意思をもった「私」としていきていたかったのだ。

 

半ば自棄になっていた私は、引越し前の我が家のように哀愁を漂わせていた七〇八号室の純白の病床をあとに、非常階段に通じるドアの前で辺りを警戒していた。誰の気配も感じない。

 

緑色でサビを覆い隠している古びたドア。その向こうから微かに滲み出している、じめじめとした湿気の匂い。遠くから聞こえてくる医療器具のピコピコと鳴る音たちは私の感覚を研ぎ澄ます。今だ。

 

私は非常階段の鍵穴に用意しておいた針金をねじ込み、開けた。カチャッという冷たい音をたてて、ドアが開く。

 

開けた瞬間に、桜木さんが笑顔で立っていたりしないだろうか。そう思って、一瞬怯んだけれど、そこには何の変鉄もないただの階段がずっしりと待ち構えているだけだった。

 

雨の日というのが幸いしたのだろうか、外には人影という人影が一つたりとも見あたらなかった。雨音はボリュームをあげる。

 

私はこれ幸いと階段を駆け下りる。駆け下りる。緑色に染められた非常階段を一目散に下った先、そこには私の身長ほどのブロック塀があった。これを乗り越えれば、病院の外に出られる。

 

どしゃ降りの雨に体温を奪われていくのがわかった。敷かれたレールの外に出るのは、思いのほか過酷だ。普段から何気なく目にしている雨ですら、生命を脅かす凶器となって襲いかかってくるのだから。

 

そんなことを頭では理解していたとしても、私は愚かにも自分の衝動をおさえつけておくことができなかった。結局のところ、人間は無い物ねだりをするものなのではないだろうか。例え、それが毒物だったとしても。

 

私は眼前のブロック塀を乗り越えるため、次の手に打って出ていた。

 

第八節 詠井新のゲーム理論

ゲームがつまらなくなってしまったのは、いつ頃からだっただろうか。不思議な話だが、大人になってからもゲームを楽しめる人と、そうでない人がいる。

 

ここで、面白いのは子供の頃は皆ある程度平等にゲームを楽しんでいた、という点だろう。では、何故大人になった途端にゲームへの興味がなくなるのだろうか?

 

車で買い出しに向かっている途中、僕はそんな不可解な事象から、これから先の人生を楽しむヒントをみつけだそうとしていた。

 

信号は赤を示している。通りすぎる対向車の存在感は消えて、ワイパーの刻むリズムが際立った。一般論を借りるとすれば、大人になると先の展開が苦労せずとも予想できてしまうからなのかもしれない。

 

なにも知らない頃、自分の常識が全く通用しない別世界に放り出されて、見るものすべてに無限にも似た可能性を見いだしていた気がする。暗中模索最高というわけだ。

 

目の前の信号機は、黄色を覗かせたかと思うと、すぐに顔色を青に変えた。かかとでアクセルを踏み倒す。

 

逆に、大人になると未知という刺激的な体験が消耗してしまって、物足りなさや自らの可能性に天井を作ってしまうのだろう。

 

ただ、それだとすぐに矛盾点に気づくことができる。大人になったあともゲームを楽しんでいる人の存在だ。まさか、ゲーム好きの人が全員ゲームを終えるたびに記憶喪失になっていて、お決まりの展開やアイテムの数々を忘れてしまっているはずもあるまい。

 

車内で垂れ流していたラジオのコメンテーターは、大袈裟に驚いてみせている。わざとらしい。

 

もしゲームがつまらなくなってしまった人と、そうでない人に違いがあるとすれば、それは今ゲームを「している」か「していない」かだろう。

 

言われてみれば、どうせつまらないと思いつつダウンロードしたゲームを何気なく起動させてみると、小一時間楽しめたという経験には心当たりがある。

 

スーパーへ向かっていた僕は、昼に足を運んだ病院の裏側にある道に向けて指示キーをだした。

 

そう、ゲームがつまらなくなっていたわけではない。変わってしまったのは、プレイヤーの方というわけだ。

 

つまり、自ら肥やしてしまったゲームへの期待は「楽しさ」を「期待を裏切られる恐怖心」にすり替えてしまうというのだ。無意識の間に自分の回りに障壁や天井を作ってしまう。

 

その未知の可能性に、どう向き合ったか。その結果が、ゲームを楽しめる人と、そうでない人の違いなのではないだろうか。

 

僕は一筋の妥協解を見つけると、ほっと思考を止めた。

 

そんな僕の目に写っていたのは、すぐ前方ヘッドライトに照らされた小柄な人影だったのだけれどーー。




 

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